ビリヤードボールの衝突

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ライカン『言語哲学』第二章 確定記述⑵ ラッセルの確定記述に関する理論と問題の解決

単称名のうちの一つである確定記述が、世界のうちに存在する何かを選び取るor表示することによって意味を持つ(意味の指示説)とすると起こってしまう問題を前回確認した。今回は、ラッセルが意味の指示説に代わって展開する確定記述に関する理論と、それによって指示説が抱えていた問題がどう解かれるのかに注目する。なお、ラッセルの記述の理論に対する反論は、次回以降の記事でまとめる。

 

まず、確定記述の例を挙げよう。

⑸『ウェイヴァリー』の著者はスコットランド人である。

(The author of Waverly was Scotch.)

 

ラッセルによれば、この"the"を含む文(つまり確定記述を含む文)は次の複雑な構文を省略したものであり、そこには量化子が必ず含まれているという。

 

a)『ウェイヴァリー』を書いたものが少なくとも一人いる。

b)『ウェイヴァリー』を書いたものはたかだか一人である。

c)『ウェイヴァリー』を書いたものはそれが誰であれスコットランド人である。

 

これらを形式言語に直すと、次のように表すことができる。

a)∃xWx

b)∀x(Wx→(∀y(Wy→y=x)))

c)∀x(Wx→Sx)

 

aからcまでの文を全て繋ぐと…

 

∃x(Wx &(∀x(Wy→y=x))&Sx)

 

このように書かれた⑸の文は、この文の表層的な文法形式とは異なっているにも関わらず、

 

『ウェイヴァリー』の著者はスコットランド人である。

 

という文の論理式を正確に表現している。

 

このように分析された確定記述の理論を使って、前回取り上げた四つのパズルを解決しよう。(面倒になったからかなり簡潔に済ませてしまった。)

 

❶存在しないものへの見かけ上の指示

⑴The present King of France is bald.

ラッセルの分析に従えば、確定記述に含まれる「現在フランスの国王である人物が少なくとも一人いて」という部分が偽であるので、この文は端的に偽な文である。繰り返すが、この分析において「現在のフランスの国王」は単称名ではない。つまり、前の記事に出てきたK2(この文は主語述語文である)を否定する。

ラッセルの分析が優れているのは、単にこの文に真理値を振れるようにした、ということだけではない。この文において、「現在のフランス国王」がいかなる対象を表示してもいないということを明らかにすることで、「意義」やマイノング的対象の存在する世界という(少なくともラッセルにとっては)存在論的に奇妙な世界に住まわずに済んだのである。こういうことも言える?

 

❷否定存在言明

⑵The present King of France does not exist.

 

ポイントは、ラッセルの記述の理論において「does not exist」という表現がどう分析されるか、である。

この文を発話している人が意味しているのは明らかに、

 

「現在のフランス国王が存在する」ということはない

 

ということであり、

 

「現在フランスの国王である人物が少なくともひとりおり、かつ、現在のフランスの国王であるものはたかだかひとりであり、かつ、現在フランスの国王であるものはそれが誰であれ存在する」ということはない。

 

ということである。

 

記号にすると、

 

〜∃x(Kx&(∀y(Ky→y=x)&Ex))

 

となって、まさに、"No one is uniquely King of France"という表現と同値になる。

これはラッセルの分析の美点である。

 

スコープの話は、ライカンが出している書き換えの失敗ver.をそもそも書かなかったので、省いてしまった。

 

フレーゲのパズル

⑶Elizabeth Windsor = the present Queen of England.

 

ラッセルの記述の理論に従ってこの文を分析すると...

 

現在イングランドの女王である人物が少なくともひとりいる、

かつ、現在イングランドの女王である人物はたかだかひとりである、

かつ、現在イングランドの女王であるものはそれが誰であれエリザベス・ウィンザーと同一の人物である。

 

形式言語で書き直すと...

∃x(Qx&(∀y(Qy→y=x)&x=e))

 

以上のラッセルの分析によって、⑶は表層的には同一性言明であるように思われるが、実際にはエリザベスに複雑な関係的性質を帰属させている文であるということが明らかになった。

 

❹代入可能性

⑷Albert believes that the auther of Nothing and Beingness is a profound thinker.

 

ラッセルの確定記述の理論に従ってこの文をかきなおすと...

 

ⅰ「『無と存在』を書いた人物が少なくともひとりいて、『無と存在』を書いた人物はたかだかひとりであり、『無と存在』を書いたものはそれが誰であれ深遠な思想家である」とアルバートは信じている。

 

『無と存在』の著者を『悶える獣医』の著者と交換して分析してみると...

 

ⅱ「『悶える獣医』を書いた人物が少なくともひとりいて、『悶える獣医』を書いた人物はたかだかひとりであり、『悶える獣医』を書いたものはそれが誰であれ深遠な思想家である」とアルバートは信じている。

 

「 」内の真理値はⅰとⅱで一致しなければならないが、それぞれの文はアルバートに異なる信念を帰属させているので、文全体の真理値が一致しないことは何の問題にもならなくなる。

 

前半で見たように、ラッセルは確定記述の機能が何かを名指すことに尽きている訳ではなく、むしろ"the"(確定記述)が量化子を含む複雑な文を省略したものであるということを明らかにした。それを用いて、確定記述に関して意味の指示説をとると起きてしまう4つの問題を以上のように解決した。

 

次回は、このラッセルの記述の理論に対する反論をみることにする。

ライカン『言語哲学』第二章 確定記述⑴ 確定記述の意味が指示に尽きるとしたら、どんな問題が起こるか?

意味の指示説がすべての語に当てはまるわけではないとしても、少なくとも固有名や代名詞、確定記述(こういうやつらを単称名という)については正しい、と思われるような気がする。しかし、ラッセルは、確定記述は何かを表示することで意味を持つわけではない、と論じた。

 

ラッセルは、確定記述が意味を持つとは何かを表示するに尽きると考えた場合、(少なくとも?)4つの困難が生じることを明らかにした。そして、ラッセルが代わりに提示した確定記述の理論は、これは記述の束説と呼ばれるのだが、これは4つの困難を解決することができると考えた。もっとも、ラッセルの記述の束説にはいくつかの批判が加えられており、それについても本章で述べられるが、ひとまず今回は4つの困難を述べることにする。

 

❶存在しないものへの見かけ上の指示の問題

⑴The present King of France is bald.(現在のフランス国王はハゲである。)

 

⑴についての以下の言明がすべて真だとすると(一見どれも真であるように見えるのだが)論理的に矛盾が起きる。

K1⑴は有意味である

K2⑴は主語述語文である

K3主語述語文が有意味であるのは、その文がある個体を選び出し、その個体にある性質を帰属するとき(かつそのときのみ)である

K4⑴の主語は存在するいかなるものも選び出して(表示して)いない

K5仮に、⑴が有意味であるのは、あるものを選び出して、それにある性質を帰属するときかつそのときのみであり(K1,K2,K3)、かつ、⑴の主語が存在するいかなるものも選び出して(表示して)いないならば(K4)、⑴は結局のところ有意味ではない(K1に矛盾)、または、⑴は存在しないものを選び出しているかのどちらかである。しかし…

K6「存在しないもの」なるものはない。

 

つまり、存在しない対象に言及する確定記述に関して意味の指示説をとると、その確定記述を含んだ文は有意味でなくなるか、もしくは、「存在しないもの」を表示する、という形而上学的な困難を抱えることになる。

 

❷否定存在言明の問題

⑵The present King of France does not exist.(現在のフランス国王は存在しない。)

 

⑵は真であるように思われる。また、現在のフランス国王について述べた文であるようにも思われる。しかし、仮に⑵が真であるとすると、⑵は存在しないものについて言及していることになり、現在のフランス国王について述べていることにはならなくなってしまう。また、⑵がフランス国王について述べているとすると、その場合、何らかの意味でこの国王の存在にコミットすることになるが、そんな存在者はいないので、この文は偽となる。つまり、存在しない対象についてその存在を否定する文を作り、意味の指示説に従ってその文を解釈すると、その文を真とみなすか偽とみなすかに関わらず、論理的に矛盾する文となってしまう。

フレーゲは、K3を棄却し、意味には指示とは別に意義というものがあり、非指示的な単称名の場合では、指示対象の代わりに意義を持つとすることで、この困難を解決しようとした。また、マイノングは、「何であれ思考の対象となりうるものはーたとえ自己矛盾しているものであってもーある種の存在を有している」という主張をすることによってK6を否定し、この問題を解こうとした。しかしどちらも、ラッセルにとっては受け入れられるものではなかった。

 

 

❸同一性に関するフレーゲのパズル

同一性言明は単称名を2つ含んでおり、どちらの単称名も(同一性言明が真である限り)同じ人やものを選びだす(表示する)。

 

⑶Elizabeth Windsor= the present Queen of England.

エリザベス・ウィンザーは現在のイングランドの女王と同一人物である。

 

もし、単称名の意味が指示に尽きるなら、⑶は次の文と同じ情報量しか持たないはずである。

 

⑶’Elizabeth Windsor=Elizabeth Windsor

エリザベス・ウィンザーはエリザベス・ウィンザーと同一人物である。

 

しかし、⑶は、⑶’のように、トリヴィアルなものではない。

また、⑶は偶然的な真理である。エリザベス・ウィンザーは現在のイングランドの女王でないこともできたからだ。それゆえに、一方の単称名は、それが指示する対象とは別に何らかの意味を持っている必要があるように思われる。

フレーゲは、2つの単称名が異なった意義を持っているがゆえに⑶がトリヴィアルではなくなると考えた。ちなみに、フレーゲはいわゆる意味を「意味(Bedeutung)[指示対象]」と「意義(Sinn)」に分けた。明けの明星も宵の明星も金星という同じ意味(指示対象)を持つが、その指示対象を指す指し方?である意義は異なる、というのである。

 

❹代入可能性の問題

単称名の意味が指示に尽きるなら、ある文にあらわれている単称名を、それと同じ対象を表示する単称名と入れ替えても、真理値は変わらないはずである。しかし、以下の例に見るように、真理値が変わる場合がある。

 

⑷Albert believes that the auther of Nothing and Beingness is a profound thinker.

アルバートは、『無と存在』の著者は深遠な思想家であると信じている。

 

実は、『無と存在』の著者は、『悶える獣医』というポルノ小説の著者でもあるのだが、アルバートはこの本の著者が深遠な思想家だとは決して信じていないとしよう。

そうすると…

 

⑷’アルバートは、『悶える獣医』の著者は深遠な思想家であると信じている。

という文が、真ではなくなる。「『無と存在』の著者」と「『悶える獣医』の著者」が同一の対象を指示しているにも関わらず。

 

この後、指示的に透明とか不透明とかいう話が出てくるが、本筋とどう関係がある?

多分、確定記述がある主体の信念内容の中に現れていて、指示的に不透明だから真理値が変わるという現象が起こって、もし指示的に透明なら真理値は変わらないという話かな?というのも、「『無と存在』の著者は深遠な思想家である」という文と「『悶える獣医』の著者は深遠な思想家である」という文の真理値が異なることは(両者の指示対象が同じである限り)ないから。

 

仮に、確定記述の働きが、世界から対象を選び出してきて指示しているということに尽きるのであるとしたら、以上4つの問題が生じる。ラッセルは、確定記述に関して記述の理論/記述の束と呼ばれる理論を提示して、これらの問題(パズル)を解いて見せた。

それがどんなものなのかは、また次回の記事で書くことにする。

 

 

ライカン『言語哲学』第一章 意味と指示

・任意の記号や音声列のうちのあるものは有意味な文である。

・有意味な文は全て、特定の何事かを意味している。

 

では、意味とは何か。何かを意味しているとはどのようなことなのか。何によってその文は有意味になっているのだろうか。

 

私たちの意味に関する日常的で常識的な理解は、次のようなものである。すなわち、「ある言語表現は、その言語表現がなんらかの事物を指し示す(srand for)ことによって、現に持っている意味を持つ」と。これを”意味の指示説”という。しかし一見もっともらしいこの説に対しては、いくつかの反論がある。

 

反論1

すべての語がなんらかの現実の対象を指し示しているわけではない。

虚構的対象:ペガサス、シャーロックホームズ

量化の代名詞:nobody, anybody

間投詞や前置詞:おい、〜について

など

(挙げられてはいないが否定詞や数詞、正三角形のような対象もそうでしょう)

 

反論2

意味の指示説によれば、文はそれに含まれる語が指示している対象についての名前のリストである。しかし、「太郎、二郎、花子」などという単なる名前のリストは何も意味しない。

さらに、「ラルフ、肥満性」のような言語表現が主語述語文「ラルフは太っている」と同じ意味を持つと、一見すると考えられるかもしれないが、この言語表現が有意味になるためには、「ラルフは肥満性を持っている/例化している」のように、動詞を挿入しなければならない。そして、ここで挿入された「持っている」という関係を表す動詞がラルフや肥満性とどのように関わっているのかを説明するために、別の存在者を立てる必要がある。仮に、その存在者によってラルフと肥満性の持っている/持たれている関係を説明できたとしても、今度は、その存在者と持っている/持たれている関係との関係を説明するためのさらなる存在者が必要とされ、この後退は無限に続く。よって、意味の指示説がこの文の意味を説明するためには、際限なく抽象的対象を立てる必要があるが、そのようなことは実際にはできないので、この説では、「ラルフは肥満性を持っている/例化している」という文の意味がどのように決まるかを説明できない。(ラルフが肥満性を持っているのはラルフが肥満性を持っている時かつその時のみだが、ラルフが肥満性を持っているという時がどのような時かを指示によって確定できないので、結局はこの文がいつ正しくなるかを言えないということで良いか?)

二番目の話は、反論1でも扱われている。

 

反論3

2つの語が同じものを指示するにも関わらず、意味が異なることがしばしばある。

ヨハネ・パウロローマ法王、明けの明星と宵の明星など。

 

以下本章に書かれていることではない。

言葉の意味が指示に尽きるなら、「明けの明星は宵の明星である」と「明けの明星は明けの明星である」は同じ情報であるはずだが、明らかにそうではない。ということは、意味には少なくとも、指示以外のなんらかの要素があるということだ。