ビリヤードボールの衝突

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ライカン『言語哲学』第二章 確定記述⑴ 確定記述の意味が指示に尽きるとしたら、どんな問題が起こるか?

意味の指示説がすべての語に当てはまるわけではないとしても、少なくとも固有名や代名詞、確定記述(こういうやつらを単称名という)については正しい、と思われるような気がする。しかし、ラッセルは、確定記述は何かを表示することで意味を持つわけではない、と論じた。

 

ラッセルは、確定記述が意味を持つとは何かを表示するに尽きると考えた場合、(少なくとも?)4つの困難が生じることを明らかにした。そして、ラッセルが代わりに提示した確定記述の理論は、これは記述の束説と呼ばれるのだが、これは4つの困難を解決することができると考えた。もっとも、ラッセルの記述の束説にはいくつかの批判が加えられており、それについても本章で述べられるが、ひとまず今回は4つの困難を述べることにする。

 

❶存在しないものへの見かけ上の指示の問題

⑴The present King of France is bald.(現在のフランス国王はハゲである。)

 

⑴についての以下の言明がすべて真だとすると(一見どれも真であるように見えるのだが)論理的に矛盾が起きる。

K1⑴は有意味である

K2⑴は主語述語文である

K3主語述語文が有意味であるのは、その文がある個体を選び出し、その個体にある性質を帰属するとき(かつそのときのみ)である

K4⑴の主語は存在するいかなるものも選び出して(表示して)いない

K5仮に、⑴が有意味であるのは、あるものを選び出して、それにある性質を帰属するときかつそのときのみであり(K1,K2,K3)、かつ、⑴の主語が存在するいかなるものも選び出して(表示して)いないならば(K4)、⑴は結局のところ有意味ではない(K1に矛盾)、または、⑴は存在しないものを選び出しているかのどちらかである。しかし…

K6「存在しないもの」なるものはない。

 

つまり、存在しない対象に言及する確定記述に関して意味の指示説をとると、その確定記述を含んだ文は有意味でなくなるか、もしくは、「存在しないもの」を表示する、という形而上学的な困難を抱えることになる。

 

❷否定存在言明の問題

⑵The present King of France does not exist.(現在のフランス国王は存在しない。)

 

⑵は真であるように思われる。また、現在のフランス国王について述べた文であるようにも思われる。しかし、仮に⑵が真であるとすると、⑵は存在しないものについて言及していることになり、現在のフランス国王について述べていることにはならなくなってしまう。また、⑵がフランス国王について述べているとすると、その場合、何らかの意味でこの国王の存在にコミットすることになるが、そんな存在者はいないので、この文は偽となる。つまり、存在しない対象についてその存在を否定する文を作り、意味の指示説に従ってその文を解釈すると、その文を真とみなすか偽とみなすかに関わらず、論理的に矛盾する文となってしまう。

フレーゲは、K3を棄却し、意味には指示とは別に意義というものがあり、非指示的な単称名の場合では、指示対象の代わりに意義を持つとすることで、この困難を解決しようとした。また、マイノングは、「何であれ思考の対象となりうるものはーたとえ自己矛盾しているものであってもーある種の存在を有している」という主張をすることによってK6を否定し、この問題を解こうとした。しかしどちらも、ラッセルにとっては受け入れられるものではなかった。

 

 

❸同一性に関するフレーゲのパズル

同一性言明は単称名を2つ含んでおり、どちらの単称名も(同一性言明が真である限り)同じ人やものを選びだす(表示する)。

 

⑶Elizabeth Windsor= the present Queen of England.

エリザベス・ウィンザーは現在のイングランドの女王と同一人物である。

 

もし、単称名の意味が指示に尽きるなら、⑶は次の文と同じ情報量しか持たないはずである。

 

⑶’Elizabeth Windsor=Elizabeth Windsor

エリザベス・ウィンザーはエリザベス・ウィンザーと同一人物である。

 

しかし、⑶は、⑶’のように、トリヴィアルなものではない。

また、⑶は偶然的な真理である。エリザベス・ウィンザーは現在のイングランドの女王でないこともできたからだ。それゆえに、一方の単称名は、それが指示する対象とは別に何らかの意味を持っている必要があるように思われる。

フレーゲは、2つの単称名が異なった意義を持っているがゆえに⑶がトリヴィアルではなくなると考えた。ちなみに、フレーゲはいわゆる意味を「意味(Bedeutung)[指示対象]」と「意義(Sinn)」に分けた。明けの明星も宵の明星も金星という同じ意味(指示対象)を持つが、その指示対象を指す指し方?である意義は異なる、というのである。

 

❹代入可能性の問題

単称名の意味が指示に尽きるなら、ある文にあらわれている単称名を、それと同じ対象を表示する単称名と入れ替えても、真理値は変わらないはずである。しかし、以下の例に見るように、真理値が変わる場合がある。

 

⑷Albert believes that the auther of Nothing and Beingness is a profound thinker.

アルバートは、『無と存在』の著者は深遠な思想家であると信じている。

 

実は、『無と存在』の著者は、『悶える獣医』というポルノ小説の著者でもあるのだが、アルバートはこの本の著者が深遠な思想家だとは決して信じていないとしよう。

そうすると…

 

⑷’アルバートは、『悶える獣医』の著者は深遠な思想家であると信じている。

という文が、真ではなくなる。「『無と存在』の著者」と「『悶える獣医』の著者」が同一の対象を指示しているにも関わらず。

 

この後、指示的に透明とか不透明とかいう話が出てくるが、本筋とどう関係がある?

多分、確定記述がある主体の信念内容の中に現れていて、指示的に不透明だから真理値が変わるという現象が起こって、もし指示的に透明なら真理値は変わらないという話かな?というのも、「『無と存在』の著者は深遠な思想家である」という文と「『悶える獣医』の著者は深遠な思想家である」という文の真理値が異なることは(両者の指示対象が同じである限り)ないから。

 

仮に、確定記述の働きが、世界から対象を選び出してきて指示しているということに尽きるのであるとしたら、以上4つの問題が生じる。ラッセルは、確定記述に関して記述の理論/記述の束と呼ばれる理論を提示して、これらの問題(パズル)を解いて見せた。

それがどんなものなのかは、また次回の記事で書くことにする。