ビリヤードボールの衝突

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ライカン『言語哲学』第一章 意味と指示

・任意の記号や音声列のうちのあるものは有意味な文である。

・有意味な文は全て、特定の何事かを意味している。

 

では、意味とは何か。何かを意味しているとはどのようなことなのか。何によってその文は有意味になっているのだろうか。

 

私たちの意味に関する日常的で常識的な理解は、次のようなものである。すなわち、「ある言語表現は、その言語表現がなんらかの事物を指し示す(srand for)ことによって、現に持っている意味を持つ」と。これを”意味の指示説”という。しかし一見もっともらしいこの説に対しては、いくつかの反論がある。

 

反論1

すべての語がなんらかの現実の対象を指し示しているわけではない。

虚構的対象:ペガサス、シャーロックホームズ

量化の代名詞:nobody, anybody

間投詞や前置詞:おい、〜について

など

(挙げられてはいないが否定詞や数詞、正三角形のような対象もそうでしょう)

 

反論2

意味の指示説によれば、文はそれに含まれる語が指示している対象についての名前のリストである。しかし、「太郎、二郎、花子」などという単なる名前のリストは何も意味しない。

さらに、「ラルフ、肥満性」のような言語表現が主語述語文「ラルフは太っている」と同じ意味を持つと、一見すると考えられるかもしれないが、この言語表現が有意味になるためには、「ラルフは肥満性を持っている/例化している」のように、動詞を挿入しなければならない。そして、ここで挿入された「持っている」という関係を表す動詞がラルフや肥満性とどのように関わっているのかを説明するために、別の存在者を立てる必要がある。仮に、その存在者によってラルフと肥満性の持っている/持たれている関係を説明できたとしても、今度は、その存在者と持っている/持たれている関係との関係を説明するためのさらなる存在者が必要とされ、この後退は無限に続く。よって、意味の指示説がこの文の意味を説明するためには、際限なく抽象的対象を立てる必要があるが、そのようなことは実際にはできないので、この説では、「ラルフは肥満性を持っている/例化している」という文の意味がどのように決まるかを説明できない。(ラルフが肥満性を持っているのはラルフが肥満性を持っている時かつその時のみだが、ラルフが肥満性を持っているという時がどのような時かを指示によって確定できないので、結局はこの文がいつ正しくなるかを言えないということで良いか?)

二番目の話は、反論1でも扱われている。

 

反論3

2つの語が同じものを指示するにも関わらず、意味が異なることがしばしばある。

ヨハネ・パウロローマ法王、明けの明星と宵の明星など。

 

以下本章に書かれていることではない。

言葉の意味が指示に尽きるなら、「明けの明星は宵の明星である」と「明けの明星は明けの明星である」は同じ情報であるはずだが、明らかにそうではない。ということは、意味には少なくとも、指示以外のなんらかの要素があるということだ。